
黎明期:「頻発する航空機事故」
この航空安全会議は、1966年に発生した航空機連続事故を契機として、1966年3月に設立されました。この年は、2月に「全日空羽田沖事故」が発生し、その一ヶ月後の3月に羽田空港でカナダ太平洋航空機、翌日、富士山上空でBOAC機が連続して事故をおこし、「呪われた日本の空」といわれた年でした。この時代、60年代は、ダグラスDC8、ボーイング707の今では懐かしい初期型ジェット旅客機が就航し、国内線にもボーイング727、コンベア880が導入され始め、ジェット化の波が押し寄せて来た時代でした。
このように、従来のプロペラ機を対象にした体制が大きく変わる時期であり、各職場では業務量の増加、設備や人員の不足等による労働強化があり、ストライキを始めとした争議行為が増加した時期でもありました。このような時期、航空の現場で働く労働者達は、「運航規程、整備規程に大きな不備があり、また、労使関係が極度に悪化していて事故がおきかねない」と考え、1966 年2月1日、航空局長に「適切な処置」を申し入れましたが、この時の航空局長の発言は「近く事故でもおこるというのですか?」といったもので、現状認識に大きな違いがありました。

この3日後の2月4日に「全日空羽田沖事故」が発生してしまったのです。これを契機に「航空事故防止のために、現場の労働者が企業、職種、官民の枠を超えて活動する必要がある」として、航空安全推進連絡会議(当時)が設立されました。しかし、その後も「残念ながら」というべきですが、東亜国内航空ばんだい号事故、全日空雫石事故、を始めとして、羽田沖、石垣、中標津、花巻、日航123便等の事故が発生しています。
活動の焦点:「事故調査と刑事捜査」
航空機事故調査において最も大きな課題は、国際民間航空(ICAO)条約にも定められている、「原因を究明し、事故の再発を防ぐ」ことにあります。 しかしこれも「残念ながら」、日本の航空事故調査では、警察による刑事責任追求のための捜査が優先され、世界各国の「事故再発防止優先」の事故調査とは大きく違っています。
このような体制に対し、航空の安全のため、事故を誘発した直接、間接的要因(運航支援体制、諸設備、気象観測体制等の不備)を指摘し、これらの改善を目的として、行政機関への要請や、国会委員会への参考人発言、記者会見等を実施しました。こうした活動の成果の一端として航空事故調査委員会から運輸安全委員会への変更が挙げられます。ただし、「事故調査と刑事捜査の分離」という課題は依然として残ったままです。
活動の焦点:「Safety Management=安全管理」
21世紀に入ってICAOが提唱する航空機事故防止の考え方、それが「Safety Management=安全管理」です。日本の行政当局(航空局)もICAOに合わせた形で「REGULATOR=航空規制当局」と「PROVIDER=サービス提供者」に区分されましたが、その実態は20世紀と何ら変わるものではなく、責任の所在が極めて曖昧な航空行政が行われてきました。
2024年1月2日に羽田空港で発生した航空機衝突事故以降、その皺寄せが露呈し、日本の航空行政は迷走を続けています。日本の航空安全を達成するためにも、今こそ「REGULATOR=航空規制当局」と「PROVID ER=サービス提供者」を明確に区分し、責任ある航空行政の実現と航空サービスの提供を確実にしていく必要があります。
